【有頂天家族6話】紅葉=弁天。紅葉狩りの意味【感想レビュー】


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有頂天家族 第06話「紅葉狩り」

●紅葉狩りの意味

 秋の行楽、しかも狸絡みと言えば何と言っても月見だろう。なのに、月見でなく紅葉狩りが選ばれたのは「紅葉=弁天」の演出をする為。ここでは、そう考えられる理由を述べていきたい。

 まず、今回弁天は真っ赤な服を着ている。そして赤は一般的な天狗の色。

「赤玉先生は、彼女に手取り足取り、天狗教育を施し、彼女は人間から天狗への階段を勢い良く駆け登った。(中略)今の弁天に昔日の面影はない」
「やれやれ、貴方はまるで天狗のようだな」

 そして、矢三郎の独白や淀川の台詞も、弁天が天狗である事を強調している。また、屋上で弁天が煙草を吸うが、吸殻から煙草本体はほとんど減ってない。なのに煙の量は逆に物凄く多かった。よって、これは5話で矢三郎が持っていた天狗煙草だと考えられる。これも「弁天=天狗」の演出。
よって「紅葉(こうよう)=弁天が人間から天狗に変わった」事の暗喩。


 更に「紅葉(こうよう)=紅葉(もみじ)が散る=弁天に危険が迫っている」暗示。ただ、5話レビューで書いたように、寿老人のせいなのか、後のシーンの矢二郎の台詞
「子供というのは、訳もなく泣くものさ」
から連想される精神の未発達、天狗の力だけ得ても、人として真っ当に精神が育ってないせいなのか、詳細はわからない・・・・。

 しかし、後者だと自殺しようとか、自暴自棄になっていた弁天を立ち直らせようと連れて来た訳でなく、本当に攫って来た挙句そんな状態にさせているなら、赤玉に弁護の余地はない。よって、もし後者ならそこら辺に何かまだ隠された要因がある筈・・・・。

 また、紅葉の茂る屋上に矢三郎と淀川を連れて来たのは弁天。おかげで2人は弁天(=紅葉)を切っ掛け・肴に仲を深める事ができた。それも紅葉狩りの演出に含まれている。

 更に弁天がいる間は、紅葉の木のすぐ近く、木立の中で、舞い散る紅葉を映しながら話が進む。しかし、弁天が帰り、2人だけになると、紅葉の木立から離れた椅子に座り、紅葉の赤がほとんど映らなくなる。これからも「紅葉=弁天」を示していると考えられる。

「僕らは弁天さんの途中退場と言う。いつもね、彼女は断りなく途中で姿を消してしまうんだな」

 そして、淀川のこの台詞は「宴会=紅葉狩り」から紅葉が消えても、残った者で宴会が続く・現在もそうである事を説明している台詞。

●弁天は狸を食べたい訳ではない

「私に食べられる貴方が可哀想なの。でもね、私は貴方を食べてしまうのよ」
「あの時惚れたね、恋に落ちたね。貴方の気持ちが僕にはわかるもの。ここに同士がいると思ったね」
「それは先生の思い違いよ。私、そんな事言った覚えはないですもの」

 弁天と淀川の会話。弁天の真意は、5話レビューで書いたように

「可哀想だから食べたくないが(寿老人に逆らえず)食べるしかない」

だから淀川の受け取り方は淀川の思い違いだと言っていると考えられる。


●二律背反

「かわゆきもの達を我々は食うんだ。悲しいけれども実に美味い。ここら辺は大いなる矛盾だな。即ち愛だ。良くわからんが多分愛だね。これが愛だね」
「母上を救った恩人ではあっても、相手は憎むべき仇だ。でも何故か慕わしく思えた」
「父上を鍋にして食ってしまった弁天様に、何故俺は惚れたりするのかねえ」

 これらは淀川や矢三郎の台詞。この作品には二律背反が多数存在する(と思われる)。

1.弁天は父の仇だが、惚れている矢三郎
2.淀川は父の仇だが、母の恩人でもあり、慕っている矢三郎
3.淀川は狸が大好きだが、好きだからこそ食べてしまう
4.矢三郎は腰を痛めた原因だ(と多分知っている)が、世話をかけたくない赤玉
5.弁天は腰を痛めた原因だ(と多分知っている)が、寵愛する赤玉
6.(赤玉は(自暴自棄だった?)自分を救ってくれたが、魔王杉の事件を計画した弁天)

4〜6は、憎まれ口を叩きながらも、真意は別にあると考えられる行動を多数している赤玉からの推測。詳しくは1〜4話レビューを見て下さい(笑)。推測なんだけど、多分あってるんじゃないかな〜と思ってはいます・・・・。

●その発想はなかった

「天敵がいない。死んで焼かれて灰になって、微生物に食われて、土に還るぐらいだ。でもそうなると、僕には寂しいという気持ちが起こるな。いきなり微生物に食われるのは寂しいんだな。どうせ死ぬのなら、あんまり痛くさえなければね、僕は狸に食われるのが良いんだ。病院で皺くちゃになって死ぬよりも、狸の晩御飯になる方が良い。病院で死んだって誰の栄養にもならない。そんなのは寂しいね。狸が腹を膨らましてくれる方がよっぽど良いな」
「先生を食うのは、ちと狸の手に余りますな」
「そうだね。それに僕はきっと不味い気がするんだ。悲しいな。狸達が自分を食っても不味かろう、そう思う人間っていうのは悲しいな」

 淀川と矢三郎の会話。生態系の頂点に位置し、食われないのが当たり前と驕り高ぶっていると思いつきもしない発想。衛生面、食い散らかされた骨を遺族が集められるか?、食った動物に対する憎しみを持ってしまう可能性がある、衛生的に調理した肉だけ動物に食わせるなら誰が調理するのか?などなど、多数の問題が出るけど、生態系の一部な以上食われて終わるのが本来の姿。

 それを火葬が良いと思うのはやはり人の驕り以外の何ものでもない・・・・でも、理屈でそうわかっても、僕は、やっぱり火葬が良いと、驕りを捨てられないですが、こういう発想は持っておきたいものです・・・・。
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2013年08月12日 23:07 by 元会長
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