さて、本記事は
・物語シリーズにモブがいない理由、撫子と翼が暦に恋した理由、傷物語が延期された理由
を元にしているので、宜しければそちらからお読み下さい。
その上で今回は、老倉育が不幸なのは育のせい=育の家庭が崩壊したのは育のせいである理由を見ていきたいと思います。
●羽川翼の場合
まず、上記記事や終物語4話感想より、羽川翼の家庭の不和も翼に一番の原因がありました。
『本物の怪異』である翼にとって『(両親等の)ニンゲン』は塵芥に等しい存在で、翼がそれらに配慮することなんてなかったからです。
翼が本気になれば、暦を鬼化させるために父親(に翼を殴らせそれ)を利用し、ついでに障り猫でシメるなんて朝飯前の些事なのだから。
猫物語(白)3話のひたぎの
「自分が良い人、善人であることを周囲に知られれることは、ニンゲン社会では非常に高いリスク。付け込まれる可能性が非常に高い。(中略)そのリスクを全然大したことだと思っていない」
「野生として落第」
これらの台詞には、そんな洒落にならない翼の表と裏が暗示されていました。
●戦場ヶ原ひたぎの場合
では、それを踏まえた上で、戦場ヶ原ひたぎの家庭が崩壊したのは誰のせいでしょうか?
悪徳宗教団体やそんな存在を許してしまう社会を除いて、ひたぎの家族の中で考えると、表面的には悪徳宗教なんて馬鹿げたものにハマった母親のせい、ということになりそうですが・・・・。
そうではない・・・・と僕は思っています。
ひたぎ母は『怪異』候補ではありましたが、最悪でも怪異49%、ニンゲン51%の『ニンゲンモドキ』でした。
何故そう言えるのかというと、化物語2話で母親の顔が映されない=ひたぎが自分と同じ『怪異』として認識できていない演出が入っているからです。
だから、母親がひたぎのことをどれだけ思い、大病のことでどれだけ心配し、その手術の成功をどれだけ喜んだとしても、ひたぎはそんな母親に対し何の感情も抱きませんでした。
貝木泥舟がひたぎを蟹に行き遭わせる前から、忍野メメが
「お嬢ちゃんがそうなる前からお嬢ちゃんの周りにはあったし、或いはなかったともいえる」
と言っていたように、『怪異モドキ』のひたぎは他人(母親など)への思いを「おもし蟹」に丸投げしていたから。
それは、ひたぎや阿良々木暦が普通に認識できた『怪異モドキ』のひたぎ父も同様で、そんな『怪異モドキ』達との絆を求めたせいで、ひたぎ母は壊れてしまいました。
だから、ひたぎの家庭が崩壊した一番の原因は『ニンゲンモドキ』の母親ではなく、『怪異モドキ』であるひたぎと父親にあったのです。
そうでないと、化物語2話のメメの台詞、
「別に悪いことじゃないんだけどねぇ。特に今回の場合、今更思いを取り戻したところで母親が帰って来る訳でも、崩壊した家庭が再生する訳でもない」
が意味不明なんですよね。
『もし母親に問題があったなら、今更も何もひたぎがいつ思いを取り戻そうが家庭の崩壊を食い止めるなんて不可能です』
でも、メメは上記のように、もし、ひたぎがもっと早く思いを取り戻していたら母親が帰って来たかもしれない、家庭が再生したかもしれないと暗に言っていました。
●八九寺真宵の場合
なら、八九寺真宵も母親と離れて時間が経ったから顔を思い出せないなんて言っていましたが、きっと母親の顔を最初から認識できていなかったのだと思います。
だから、(原作より)おそらく『怪異モドキ』の父親に言われるまま母親に会わないことを誓わされて、母親への対応の道に迷って、両親の離婚を促進させてしまったのです。
●老倉育の場合
よって、個人的な"作中まともランキング"でかなり上位にいるひたぎと真宵でさえこうなのだから、育の家庭の崩壊も育に原因があるに決まっています。
何だったら、育が父親を殺し、離婚という体で町を離れ、母親を監禁の末に殺している、って線まであり得ます・・・・。
できれば、次回、翼達が監禁されていた育の母親を見つけ出す、くらいで踏み止まっていて欲しいところですが・・・・。
『怪異モドキ』な時点でかなり・・・・まあ、千石撫子の一件から、広い心で受け止めないといけない作品だという覚悟は出来ているので・・・・「Don't来い!」、ですよ・・・・w
●持っていて当たり前の幸せ
よって、上記の諸々と倫理的観点から、
『そんな取り返しのつかない過ちを犯してしまっている怪異達が、並の幸せを手に入れるなんて(まず)あり得ません』
だから、それが終物語4話感想で書いた、
『ひたぎと暦が本当の恋人ではない』
という解釈にも繋がっています。
よって、暦が育に言った
「ねぇよ。お前が潰れるほど重い幸せなんてこの世にねぇ。幸せは眩しくもなければ重くもない。幸せを過大評価するな。あらゆる幸せはお前にとって丁度いいんだ。だからそんな風に幸せを嫌うな。
(中略)
確かに今僕はとても幸せだ。だからこそ敢えて言うぞ。こんなもんはなぁ、誰もが持ってて当たり前のもんなんだよ!」
この台詞が非常に深いんですよね。
『暦が今とても幸せなんて大嘘です。暦自身のアレさとアレな翼の策略で吸血鬼に成り下がり、そんな翼への牽制でひたぎと偽りの恋人を演じているだけで、幸せなんてどこにもありません。
でも、だからこそ、そんな偽りの、誤魔化しの幸せくらいは誰もが、怪異でさえ、持っていて当たり前だから、せめて偽物の幸せくらいは暦達みんなで(育も一緒に)築いていこう』
という暦の、怪異達の『偽物』の希望が詰まっていたから・・・・。
終物語3話感想でも、暦が扇に「僕は今幸せだ」と言ったのが茶番だと書きましたが、ここも上記のように悲しく切ない怪異達の茶番劇でした・・・・。
しかも、そんな暦に、暦を鬼に堕とし、ひたぎと偽の恋人となる原因となった翼が
「よく言った」
って言うのがまた更に意味深です・・・・。
といったところで、次回、そんな育達のカルマが少しでも低く抑えられることを祈りつつ、
終物語 第6話「そだちロスト 其ノ参」
に続きますw
スポンサード リンク
スポンサード リンク
なかでも風景や色彩の演出で登場人物の心情を表現しているという所は、
なるほどと思いながら楽しく読ませていただきました。
ただ、リンクにあった記事等も合わせて読んでいて、
『怪異は人間の姿を認識できない』論を根拠とした今回の記事などにはちょっと強引な印象を受けました。
特に気になる疑問点は
・化物語14話の羽川のセリフ=阿良々木達は人間の世界を生きられないと言い切れるのはなぜ?
・ひたぎ父や人間の姿で描写された人物が人間に見えた理由が上記の推論のみで根拠が薄いのではないか?
・そもそも怪異とはどういう存在と捉えているのか?何をもって怪異という存在といえるのか?
ですね。
新鮮で興味を惹かれた記事でもあったので詳しい解説を聞いてみたいです。
まず、ひたぎ父などに関しては、ちゃんと人の形で描かれているから以上の根拠はありません(脇役であまり描写もありませんし)。それが薄いと思われるならご自分が正しいと思われる解釈でご覧になられるのが一番だと思います。
一応、以下にいくつか根拠を挙げますが、結局はモブを描かない中で、ひたぎ父などを特例的に扱っているとすると、整合性がなくなり美しくないというのが全ての根幹になっていて、以下はその理由を後追いで探しているにすぎません。
そんな訳で、例えば、ひたぎ父に関して、ルームミラーに映る額だけしか映さないという選択肢もありましたし、猫物語(黒)の翼の両親のように(夜の闇に沈み)真っ黒に映すことも可能だったはずです。
また、恋物語で貝木が撫子の両親との会話を回想したように、今回暦が小学生・育がそうであったのだろうと回想した風のイメージ画になっていたように、暦がひたぎ父の車から降りてひたぎに手を引かれて歩く間に車内の様子を回想するという方法もありました。
更に、もし貴方が車内であんな大事な話をしつつ、後ろを振り向くことが、相手の目を見ることができなかったとしたらそれは何故でしょうか? 貴方が阿良々木母のように相手に面と向かって話せた場合と比べ、そこにはどんな思いがあったのでしょう?
(そしてその思いが、アレな妻子を抱えながらそれでも腐らず働き続けているとするひたぎ父の人間像にあうものでしょうか?)
まあ、僕の解釈では阿良々木母が臆面もなく無責任に、一般的には無力であるはずの子供にあんなことを言っていたのは限りなく悪い意味で、ですけど。
ニンゲンの両親など意にも介さない強大な力を持っていた翼だから結果オーライでしたが、本当に苦しんで助けが必要だった育にも、そんな上辺のエセ正義を通しやがった○○どもですからね。
(まあ、まだ確定じゃないですけど・・・・)
ニンゲンではなく不幸にも『怪異モドキ』の家庭に生まれたのだから仕方ないと踏み止まっていた育に、『怪異モドキ』でさえそれより遥かにマシな家庭がある、なんて最悪の現実を突きつけて。
今回、育に、
「(前略)私を哀れまないで。(同じ怪異モドキでありながら幸せに暮らしている姿を育に見せ付けた)大嫌いなお前に哀れまれると、(怪異モドキの中でも更に底辺なんだと思い知らされて)本当に死にたくなるの」
と言わせたのは、そこまで追い詰めたのは、紛れもなく暦の○○親達なのだから。
しかし、逆に言えば、これは、育にはまだそれだけ人の心が残っているということでもあります。ニンゲン視点で見ると、今回の育はかなりヤバい感じなのですが、僕はそこにこそワンチャン希望が残っていると思っています。
育をこんな風にした責任の何割かを背負いながら全くそれを気にしていない阿良々木両親や、あんなことになっても平然と仕事を続けているひたぎ父らは、出来た人間だからそう出来ているのではなく、人の感情が欠落した化物、『怪異モドキ』だからそもそも痛みを感じる人の心を持ち合わせていない、という解釈にも繋がりますし。
ひたぎ母のように壊れる心が残っていただけ遥かにマシ、な気がします。
終物語2話でひたぎが育に「大したことなかった」と言ったのも、何の感情も抱かないまま暦の頬にホッチキスを突き刺せたひたぎと違って、育からはそんなニンゲンの心(暦への恨み節)を感じたから・・・・ではないでしょうか。
「なんで?・・・・なんで忍さんは助けるの、暦お兄ちゃん?・・・・撫子のことは助けてくれなかったのに!」
だから、神になって尚こう言えた撫子は、ある意味ホントにあちら側の中では一番こちら側・・・・だったのかな〜と思ってみたりw
あと、アプローチの方向を変えれば、モブが描かれない、まるで廃墟のような町に暮らす暦達を観てどう感じるでしょう? もし物語りシリーズにモブが描かれていたら、傾物語で廃墟になった町が異物としてもっと強烈な印象を与えていたと思わないでしょうか?
なのに物語シリーズでは人類がほぼ滅亡した世界の廃墟がそれほど違和感を与えません。何せ暦達は、建物こそ多少傷んではいますが、もともと人が全くいない廃墟に等しい町に暮らしていたのだから・・・・。
だとすると、そんな中で、ちゃんと姿が描かれたひたぎ父とのシーンが凄く賑やかに感じないでしょうか? 姿形の見えない幽霊のような『ニンゲン』ではなく、仲間に会えた、そんな感覚が心のどこかに引っかからないでしょうか?
もし、それらの思いを抱いて頂けるのなら、
阿良々木達は人間の世界を生きられないと言い切れるのはなぜ?
かと言われれば、
『暦達が物理的にはニンゲンと同じ場所を共有していても、全く別の世界を生きているから』
ということになります。
(その他、猫物語(黒)での暦の台詞「一生悪夢を見続ける」など色んな台詞の端々に、もう戻れない世界である暗示がされているように聞こえますし)
・・・・ちょっとズルというか、物語外の不確定情報を混ぜるなら、掟上今日子のCMの中の人が翼の中の人と同じだったことから、「掟上今日子=羽川翼」の未来の姿だとすると・・・・
翼は寝る度に記憶を失うなんて歪な状態になってやっと少しだけ人の世界と交わることが出来た訳ですが、その状態が人の世界を生きていると言えるものでしょうか?
生きていると思われるなら、『怪異モドキ』から更に『ニンゲンモドキ』に戻れれば希望はあるって感じになり、終物語の今後の展開によってはそんな可能性も残っているとは思いますが、今のところ僕は、
『暦達が人の世界に戻り普通の生活を送れるようになるハッピーエンドはない=(掟上今日子のように)重大な歪みを抱えながら部分的に人の世界に交わるのがやっと』
なのではないかな〜と思っています。
あと、
そもそも怪異とはどういう存在と捉えているのか?何をもって怪異という存在といえるのか?
に関しましては、
『超常の力を持つ怪異になり得るほど、無駄に変なところで折れない歪な心を持つ『怪異モドキ』達が、いよいよ道を踏み外せば怪異になるし、心が改善すればニンゲンモドキに戻ることもある(かもしれない)』
といった感じです。
なので、今のところ怪異の力を使っていない育はセーフだと思いたいところですが・・・・。
(まあ、ひたぎがアウトで、ひたぎ母や阿良々木母がセーフならニンゲン視点ではどっち道アウトな気もしますけど・・・・w)
そんな特殊な者達なので、ニンゲンに混じっても同族だけを見分けることができて(ニンゲンを自分達と同じ姿に認識できなくて)、ニンゲンと同じ場所を共有しながら、全く別の世界に生きている・・・・。
と、ちょっと長くなってしまいましたが、こんな感じで宜しければまたお越し下さいw
返信遅れて申し訳ありません。
自分の感じたことを整理してからと思っていたら遅れてしまいました。
>それが薄いと思われるならご自分が正しいと思われる解釈でご覧になられるのが一番だと思います。
その解釈は間違ってるぞと言うつもりはありませんよ。
あくまでも、どのような過程や理由でこのような解釈に至ったのか興味があったのでコメントしてみました。
>以下はその理由を後追いで探しているにすぎません。
根拠が薄いと書きましたが、こちらの言い方のほうがしっくりきて納得できました。
どうも結論ありきのような印象が強かったのはそのためだったのですね。
>『暦達が物理的にはニンゲンと同じ場所を共有していても、全く別の世界を生きているから』
こちらも同じような印象を受けますので、そう思い至った理由などがあればもう一歩踏み込んだ解説を頂けると嬉しいです。
なんというか推論Aと推論Bが互いに根拠になっているといった感じで、どこから生まれたのかがわからないのです。
もし、こんな意図だったら面白いなという程度であったのなら、こういう質問は野暮でしょうから特に解説は必要ありません。
>そもそも怪異とはどういう存在と捉えているのか?何をもって怪異という存在といえるのか?に関しましては、
>といった感じです。
なるほど、つまりわかりやすく言うと怪異とは精神疾患のような状態という解釈で合っているでしょうか?
そう考えると、さすがに人の姿に見えないとまではいきませんが、自分と同じような状態の人間(または安心感を感じる存在)を見分けて接していたり少し違う世界で生きているという見方も理解できます。
ただ、元会長さんの挙げられている理由とは繋がらないことが多いのでハズレですかね?
>その解釈は間違ってるぞと言うつもりはありませんよ。
やかんさんがそんな意図で書かれているのだろうとは思っていました。単に、僕の方も僕の考えを押し付けるつもりはないです程度の意味でお受け取り下さい。
最近、そこら辺のことをご理解されてない方達に、同様のことを結構強めに言っていたので、その流れで最後に「w」をつけると変な意味に見える可能性があるかなと、ちょっと固めの表現にしていただけですw
>こちらも同じような印象を受けますので、そう思い至った理由などがあればもう一歩踏み込んだ解説を頂けると嬉しいです。
うーん、難しいですね・・・・w
最初はとにかくどうして化物語(物語シリーズ)に怪異要素が入っているのかが(勿論どうしてモブがいないのかも)わかりませんでした。
怪奇系ラブコメのためのアクセントだとしても(ラブコメだけでなく怪奇系の話も入れて話のバリエーションを増やすにしても)、暗く重い設定や台詞が多すぎるんですよね。
だからラブコメなどポジティブな楽しい話を軸に怪奇系のアクセントが入ってるんじゃなくて、得体の知れないネガティブな話をラブコメに偽装している、みたいなw
(当時はその違和感をここまで言語化できてはいませんでしたが・・・・)
ひたぎが重さを取り戻しても、母親が帰ってきてハッピーエンドとはならなくて、真宵は最初から幽霊で(っていうか、鬼物語で遂にさよならしちゃいましたし・・・・)、神原はバスケの選手復帰を諦めて・・・・超常の怪異要素を入れるにしても普通はもっと幸せな結末にしないでしょうか。
・・・・本当はこれらも細かいことを書けばきりがないのですが・・・・。
例えば、真宵が浮遊霊になったら、学習塾跡にいついて忍の話友達になるとか、月火達とつるんでファイヤーシスターズの三人目になるとか、もっと幸せになってると思うんですよね。明示されてませんが、浮遊霊になっても真宵が見える者はごく僅かで、相変わらず一人寂しく町を彷徨っているんじゃないか、って不安がずっと消えませんでした。
なら、化物語15話でも、最後に阿良々木君達がメメのことを
「「「お人好し」」」
と言う時に、真宵や撫子がいないのが気になってしまいます。素直にみんなでこう〆て、仲の良さ、これまで築いてきた絆を視聴者に感じさせ、良い話だったな〜とするのが本来の流れだと思わないでしょうか?
なのに、ここに限らず、ひたぎはひたぎのアパートで、真宵は町の路上にいつも独り、撫子も月火達とまた遊ぶようにはならなくて、神原も神原の家にいて、翼もほとんど単独で、ヒロイン達の横の繋がりが余りにもなさすぎる・・・・気がしてなりませんでした。
更に、セカンドシーズンが始まると、普通は何だかんだで良く描かれるはずの主人公が、傾物語では世界を滅ぼして平然としていたり、鬼物語ではひたぎガン無視で死ぬまで真宵と逃げ回ると言い放ったり、挙句、恋物語ではひたぎを貝木に仕事を受けて貰えたら泣き崩れるまで追い詰める(ように見えた)し、内心ではこのゴ○クズは何なんだと思ってましたw
(主題を掴めてない状態だと、実は阿良々木君が翼や臥煙伊豆湖をも凌ぐ千里眼的なものを持っていて、全ての責任を取れる算段があった上で行動していた、とかの展開もあり得なくはなかったので、極力オブラートに包んで書いてましたけどw)
それに人の口にカッターとホッチキスを突っ込み、ホッチキスを突き立てるひたぎでも十分アレなのに、神原や翼や撫子が躊躇いなく阿良々木君を殺しにくるし、余接も本当に正弦を圧殺するし・・・・。
ヒロイン達が明らかにアレすぎです・・・・一部そういった嗜好の方達もいらっしゃるんでしょうけどw
台詞に関しても「一生悪夢を見続ける」とか、細かくは割愛しますがとにかく重く暗いものが多すぎると思ってました。
そんな状況でやっと、モブが描かれない理由は寂しさ、物悲しさの演出なんだと思い至ることができて、誇張でもなんでもなく、阿良々木君達には世界が本当にこんな異常なものに見えているとしたら・・・・?
ああ、これはニンゲン視点じゃなくて化物視点だったんだと上記の全てと繋がったんですよね・・・・だから「化物語」だったのか、とw
なので、そこまでくれば、
『暦達が物理的にはニンゲンと同じ場所を共有していても、全く別の世界を生きている』
って言うのも自然に出てきて、ならEDがあんな感じになっているのも、儚い存在感の薄い化物達の世界の演出なんだと、芋づる式に色んなものに繋がっていきましたw
>怪異とはどういう存在と捉えているのか?
あと、これに関してましては、そんなに深く考えていません。僕としては、怪異は魔法と同じで、現実には存在しない架空のものなので、人の心の闇を描くための物語的仕組みってことで十分かなと思っています。
要は、正義とは何か、正しさとは何か、思い遣りとは何か、などを描くための舞台装置なので、劇の中身がわかれば舞台装置の仕組みがどんなものかは気にしません。
それが精神疾患でも魔法でもその他のものでも、それはそれで良いかな〜、みたいなw
と、こんな感じなのですが、宜しければまたお越し下さい。
たしかにそういう物語なんだと思います。
ヒロインたちの境遇は総じて重いですからね…
なぜああいう結論に至ったのかはわかりました、質問に答えて頂きありがとうございました。
>そんな状況でやっと、モブが描かれない理由は寂しさ、物悲しさの演出なんだと思い至ることができて
最初のコメントに書き忘れてましたが、ここはすごく共感できるんです。
でも根っこの部分は共感できるのになぜ結論になると繋がりに違和感があるのか不思議でした。
頂いた返信や他の記事を読んでいて今更気付いたのですが、登場人物(主に暦)の言動や行動への印象が僕とかなり違うようです。
たとえば、「一生悪夢を見続ける」という猫黒での一連のセリフ。
僕はどちらかというと暦からの翼への、駄目な僕達でもいいじゃないか現実から目をそらさずにまずはそんな自分を認めようよという激励のように思えました。
また、アニメや漫画のキャラクターは基本的に変人だから面白いのであって、普通は利点が強調されますが物語シリーズは同時に欠点もそのキャラクターの個性として表現しているのが特徴だと思っています。
ですので、扇の言うように暦に愚かな部分があるのもヒロインたちの負の感情を隠さないのも僕には魅力的に映っているんでよ。
特に暦に関してはヒロインたちに駄目なとこを指摘されているのも受け入れられてる要因かもしれません。
以下は、あくまで僕がそう思っているというだけなので、阿良々木君を悪く解釈しすぎていると思われるなら、ご自分の感覚で解釈されるのが一番だと思いますw
一応、僕とやかんさんでどうして解釈がズレているのか、僕なりに思うところを書いておきますが、だからどうしたって話なので暇潰し程度にお読み下さいw
まず、ラブコメを偽装していると書きましたが、正確には文学作品を娯楽作品のように偽装している、です。娯楽作品が文学じゃないのか、とか言われるとまたややこしくなって、より正確に言うなら、
『嫌な自分を見詰め直すための作品を、嫌な自分から逃避するための作品、に偽装している』
といった感じでしょうか。
ヒーローが悪人を退治するのも、世間にのさばっている悪を自分では退治することができないからヒーローに退治して貰い現実逃避するためです。ハーレムものなどが同様なのは書くまでもないでしょうw
一方で、「ダメな自分とどう折り合いを付けて生きるべきか?」など、重く鬱々した物語は、ダメな自分を直視して、どうすれば良いのだろう? と考えさせるために、ダメなキャラ達が延々とダメな言動を繰り返す物語です。
だから、ヒーローやモテモテの主人公が出たのでは話になりません。ダメな自分を見詰め直すためには、ダメなキャラが必要なのです。
なのに、感情的になってそれを美化してしまうと、(もし本当に自分を見詰め直すための物語だったとすると)作品の世界が歪んでしまいます。
>駄目な僕達でもいいじゃないか現実から目をそらさずにまずはそんな自分を認めようよという激励のように思えました。
ここでやかんさんが思う駄目な自分とはどの程度の駄目さでしょうか? 愚か者なりに考え抜いた末に、もうどうしようもないから、誰かを救うために泣きながら戦われるような自分でしょうか?
鬼物語の阿良々木君が言った
「確かに僕は、そんな風に(他人のために自分を犠牲して)やってきたように見えるかもしれないけれど、それが平気だったことなんて一度もないぞ。いつだって泣きそうになりながら、つーか泣きながら戦ってきた」
こんな台詞にあるように。
当然僕は、これを上辺だけの戯言だと思っていますけど。例えば、猫物語(黒)では「(自分が)道化」、「こんなことには意味がない」とわかっていながらそれに反することをしているので、愚か者だからなんて言い訳にもなりません。考え抜いた末の行動ではなく、ダメだとわかっていながら、単にそうしたいから衝動のままに動いているだけです。
でも、阿良々木君を前者のようにポジティブに解釈すると、(多分)僕を含め世の中にそんな殊勝な方はそうそういらっしゃらないので、そんな方がわざわざ自省する必要なんてないと思います、実際w
だったら『駄目な自分を認める』なんて要素はお飾りなんですよね。全然駄目じゃないヒーローをより輝かせるためのスパイスです。
(別に娯楽作品を馬鹿にしてる訳じゃなく、そういった目的で書かれている作品は目指すところが違うという意味で)
誰でも駄目な自分は嫌いなものです。それを認めるのは辛いことです。だから、自分の駄目さを認めようと思ったら、自省しようと思ったら、物語のキャラの駄目さくらい許容できなければ話になりません。だから、より駄目なキャラを、より許容し易い形で書くのが、文学作品を書く時の腕の見せどころ、になる訳です。
敢えて言うなら、物語シリーズは『駄目な自分を認める』なんて言いつつ、何だかんだで総合的に好感の持てる主人公の姿を見せ現実逃避を促すための物語ですか?
それとも本当に『駄目な自分を認める』ためのヒントが詰まった、駄目なキャラ達が駄目な言動を繰り返しながら答えを探す、駄目な読者が駄目な自分を見詰め直すための物語ですか? どっちだと思われるでしょうか?
ちょっと語弊があるのですが、僕は文学作品をこんなイメージで捉えているので、(そうでない作品も沢山あるのでしょうけど)ほとんど読みませんw 鬱々としちゃいますしw アニメのブログを作っているのだから、娯楽寄りの作品が好きなんです、当然ながらw
だから、今後の記事も極力オブラートに包もうとは思っていますが・・・・あまり包みすぎるともう書く意味がなくなりますし、色々悩ましいところです・・・・。
(まあ、今期だと、某○ンパンマンを引きこもりと解釈した程度で騒ぐ方達に対して何かしらの配慮をするつもりは全くありませんが、阿良々木君のダメさはそれの比じゃないのでw)
と、こんな感じですが、宜しければまたお越し下さい。
つまり物語シリーズは文学作品であるから元会長さんは感情的にならずに見た結果、こういう解釈に至ったということですか?
娯楽寄りの作品が好きと言いつつ文学的に解釈されているように感じました。
あとは僕の読解力がないのか何を仰りたいのかよくわりませんでした…
一番気になったのは、なんで元会長さんがこれほどアララギ君を嫌っているのかということですね。
ちなみに悪く解釈しすぎているというか、僕の印象よりもなぜこんなにも悪いんだろう?と思っただけですよ。
要するに裏側を見るのを重視して自分の中で世界観を構築するのと、感じたままに見るという視聴スタイルの違いってだけでしたね。
どうして僕がそう解釈しているのかという理由をお伝えできていないようなので、あと少しだけ・・・・なので、何だったらもう読み飛ばして下さいw
まず、聖人君子を描かないと書けない物語があるように、
『ダメなキャラでないと描けない物語があります』
もし、平均的な一般人が
「愚か者なりに考え抜いた末に、もうどうしようもなくて、誰かを救うために泣きながら戦おう」
と決意できたとしたら、そんな自分を『駄目な自分』だと認識するでしょうか? そんな自分を肯定することが本当に『駄目な自分を認める』物語に見えるでしょうか?
(勿論、猫物語(黒)を元にしているので、解決策を思いつけない馬鹿さではなく、性格のダメさを認めるかどうかという話です)
僕には上記のキャラが立派な人格者にしか見えません。認めるも何も、なれるならこんな人格者になりた・・・・い、です・・・・ええ、なりたい・・・・です、とも・・・・w
なので、阿良々木君をダメじゃないとする限り、本当の意味で『駄目な自分を認める』物語を書けるはずがありません。
そしてわざわざこんな重い、ダメなキャラを描かないといけないテーマが入っていることが、作中にダメなキャラがいる証拠・・・・ではないでしょうか。
例えば、『悪人を許す』許容がテーマの物語があったとして、悪役が聖人君子にしか見えなかったら、許して当然、むしろ許さない方が悪じゃないか、となるのは明白でしょう。だから『悪人を許す』物語には悪人が必要なのです。
(更に、より悪人度が増すほどに許すことが困難になり、許すことの重みが増す訳です)
なら『駄目な自分を認める』物語にも、よりダメなキャラが必要なことを納得して頂けるのではないでしょうか。
「(自分が)道化」、「こんなことには意味がない」と思いながら、論理的に間違っていると思いながら、自分が正しいと直感した愚行をせずにはいられなかったり、ひたぎのことを全く顧みることなく感情に任せ撫子と戦い続けたダメな阿良々木君だから、自分のダメさを認めようとすることに意味が生まれるのだと、僕は思っています。
まあ、物語シリーズは1〜2クール後くらいにあれはそういうことだったのかとわかるような意地悪な作りになっているので、少し解釈を寝かせてみようかな〜と思ったりしなくもなかったりw
阿良々木君が誰かに無理矢理記憶を封じられていたりしたら、また大分解釈も変わる気がしますし・・・・。
と、こんな感じなのですが、宜しければまたお越し下さい。