クソゲーオブザイヤーが、ゲーム版のノーベル文学賞だと言える理由


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クソゲーを語ることによって、
我々に一体何ができるのだろうか。

一度生まれてしまった
クソゲーに対して、
我々はその命を救うすべを
持っていない。
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これは、ニコニコ動画様にて年末恒例となった動画・クソゲーオブザイヤーの最新版、

クソゲーオブザイヤー2014

の序盤に提示された問いかけです。

それに対し、

「拝金メーカーが生み出したクソゲーのクソさを語り継ぎ、新たな被害が出るのを防ぐ」

なんて付加価値を生み出し慰みにしたところで、ゲームの本懐である『人の役に立つ(楽しませる)』という役目を全うさせてやることはできません。

どんなに言い訳を重ねても、生み出されてしまったクソゲーの評価がクソゲーから変わることはないからです。むしろそんなクソゲーを生んだクソメーカーを許さないと、そのクソさがより強調されてしまうだけでしょう。

しかし! クソゲーマニアの・・・・聖人様、精神の成熟した人格者の方々は器が違いました!

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審議を終えた今、
わかったことが一つだけある。

それは、

『我々はクソゲーを
心から愛することができる』

ということだ。

誰からも愛されない悲しい命を、
我々は愛することができる。

そのことがクソゲーにとって
わずかな救いとなるのであれば、
今度こそ胸を張って言おう。

『クソゲーを、語ろう。』
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十年の歳月をかけて、こんな境地に達しておられたのだから・・・・!

そう、クソゲーを否定的なものとして捉えるのではなく、愛すべきものとして捉えられたなら、その悲しい存在を肯定してやることができるのです!

そうすればクソゲーは『人の役に立つ(楽しませる)』娯楽品よりも高度な

『筆舌に尽くしがたい苦痛を与えるクソゲーをも愛せるほど、プレイヤーの精神を成熟させる自己鍛錬器具になれる』

のです。

その出来が酷いほど、それを許せた時、プレイヤーの心は更なる高みに辿り着いているのです。肉体的に過酷な訓練であるほど、より強靭な肉体を手に入れられるのと同じでしょう。

●文学作品とクソゲー

一方、「本は貴方の心を豊かにする」と良く聞きますが、それってつまりは

『心に負荷をかけ心の鍛錬になっている』

ということなんですよね。

なので、本にしろゲームにしろ、読んでいて心地良いだけの娯楽作品にそんなことはできません。多少そういった要素が入っていても、マジで読むのが辛くなるガチな文学作品やクソゲーとは比べるべくもないのです。
(まあ、辛い話を如何に的確に、読者の心に刺さるよう、その上で極力受け入れ易い形にして書くのかが作家の腕の見せどころな訳で、そこがクソゲーとは根本的に異なりますけどw)

●クソゲーオブザイヤーの価値

よって、クソゲーオブザイヤー選考という作業、その十年の積み重ねの先に

『筆舌に尽くしがたい苦痛を与えるクソゲーをも愛そう』

という境地に辿り着くことのできた物語(ノンフィクション)が、文学作品たり得る深い重みを宿していました。

勿論、『クソゲーオブザイヤーの選考にまつわる物語』に価値があるだけで、クソゲーメーカーはマジで○○って話ですけどw

しかし、クソゲーオブザイヤーが、そんな拝金主義の○○○に生み出された悲しい申し子さえ、受け取る側の心構え一つで至極の文学作品になり得ることを示してくれたのだから、僕も、みなさんも(道連れですw)、クソゲー、ひいてはクソゲーメーカーさえ愛せる豊かな精神を培っていくべきなのでしょう・・・・理想論ではw

ダイナマイトを生み出し死の商人と言われたノーベルがノーベル(文学)賞を作り出したように、クソゲーからクソゲーオブザイヤーという物語を作り出した・・・・聖人様方のように、何をどう活かしていくかはその人次第なのだから。

といったところで、クソゲーオブザイヤーの選考に関わった聖人様方の偉業に思いを馳せながら、この記事を〆たいと思いますw
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2016年01月24日 14:15 by 元会長
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